祖父の一周忌
今週末は、祖父の一周忌の法要がありました。
ふだんなかなか会う機会のない親族が集まり、そのなかにはいとこの子どもたち — 娘と同じ年頃 — もいて、彼/彼女たちが一緒に遊んでいる様子を眺めたり、油断していたら子どもたちが僕の体の上に登って遊びだしたり(そしてゲロの洗礼を浴びたり!)と、賑やかなひと時でした。
何十年か前は、酒を酌み交わす大人たちの周りを賑々しく走り回っていたのは僕だったんだろうな。法事からの帰り道、そんなことを考えながら歩いていました。
2011年(およそ6年前)に神奈川から鳥取に帰ってきて、家族や親戚、幼い頃の記憶や経験を共有した仲間たちと小さなコミュニティの中でふたたび一緒に暮らしだしてから、時の流れというものを以前よりも強く意識するようになりました。
時の流れというのは、一日や一年の時間の流れといったものではなく、もっと大きな、世代という言葉の持つ感覚に近いものです。
自分が幼いころに依存していた存在、つまり、僕の親や祖父母たちの世代が担っていた役目や責任を、いま自分たちの世代が引き継ぎつつあります。
彼らはそれほど遠くない将来、旅立って行きます。僕たちは、受け継いだ役目や責任を果たしながら、次の世代を育て、引き継ぐ準備をはじめなければいけません。
いつからかこんなことを考えるようになり、子どもが生まれてから、より大きく強くなってきました。
それに伴って祖父母や両親、おじやおばを見る自分の目が大きく変わってきたように思います。
「ありがとう」という感謝の気持ちは日々強くなり、自分に対しては「もっと頑張らねば」と思うのですが、ふだんの生活の中でそれを率直に伝える機会をあまり多く持てずにいます。
「キャンプ的な暮らし!」などと言う前に、まずは、本当に大切な人たちの時間を十分に持たなければ。
時間は確実に流れています。
日々の生活で当たり前の事は特別な事に蔑ろにされてしまいますが、大切な事はいつもすぐそばに寄り添うにようにあるものですよね。
僕の親も病気になり家族が一致団結するまでは全然バラバラでしたし。大切な人への率直な気持ちにふとした時に気がつきますが、またしばらくしたら忘れてますw
awさんが感じ記した事とは相違があるコメかもしれませんが、そう感じました。
CISCOさん、いつもコメントありがとうございます!
そうなんですよね、本当に大切なことは、あまりにも日常にまぎれ込み過ぎていて、忘れてしまうんですよね。
CISCOさんが書かれているようなことも感じますし、このたびは、なんというか、うまく言葉では説明できない気持ちといいますか。
自分やイトコたちに子どもが生まれて、自分たちに「下の世代」という存在ができた時、両親や親族が今まで自分たちをどれほど大切にしてくれていたか、地域や社会などに対してどのように考え働きかけていたかなど、いろいろなことが、一端ではあるものの見えてきたような気がして、すごく暖かい気持ちになることが多くて。
うまく言えないのですが、家族親族が集まる行事のたびに、こういう気持ちが強まってしまい、思わず今回の記事になってしまいました(笑)。