片道5回飛行機に乗ってブラジルに行ってきた話(1)
2月の初旬から中旬にかけての約2週間、仕事でブラジルに行ってきました。今回は旅程についてまとめていきます。準備したアイテムの評価と旅の感想については後日共有したいと思います。
ブラジルはでかかった!
事前準備
今回、計画を立て必要な予約をとっていくうえでかなり神経を使いました。
理由としては、羽田からサンパウロまで乗り換えを含めて30時間弱とかなり長時間のフライトになること、ブラジル国内を国内線で飛ぶためローカル空港を使ったり、Uberで長距離移動したり、複数の都市に滞在する必要があったり、日本と12〜13時間※1の時差があるので日程と時間の決定に配慮が必要だったり、といったものです。ブラジルの友人にアドバイスと確認をもらいながらではあったもののやはりなかなか大変で、特にホテル選定は悩みました。
なぜならブラジル、特にサンパウロの治安の悪さは有名で、強盗や窃盗、ひったくり、誘拐、殺人などが日常的に起きていて、盗難系の犯罪の発生率は東京と比較して400倍とも500倍※2とも言われているからです。
危険な地域にあるホテルを選ばないのは当然のこととして、遅い時間にホテルに入ったり街を歩いて移動したりすることのない計画となるよう配慮が必要でした。
・・・
というわけで行く前はかなり気を揉んだわけですが、案ずるより産むが易し、行ってみればやはり刺激と楽しさいっぱいでした。そんなブラジルの旅を手記風に簡単にまとめていきます。
ブラジル探訪記
2月4日(日)
鳥取
この週末にわかに天気予報から聞こえはじめた「5〜6日にかけて関東大雪の恐れ」。6日の羽田発フランクフルト経由サンパウロ行きの便に確実に乗るため、前日5日に前入りする予定を立てていたのだが、その5日も雪で飛行機が飛ばない可能性。調べてみると、午前中の便なら飛ぶ可能性が高いとのこと。昼過ぎの便を朝イチに変更。次に娘と並んで眠るのは少し先になるな〜と思いながら就寝。
2月5日(月)
鳥取 → 東京
いつもより少し早く起き、荷物を玄関まで運び、通学する娘とバス停まで一緒に歩く。その後、トム(妻)に鳥取空港まで送ってもらう。2人にしばらく会えないと思うと、やはり寂しい。
定刻どおり、鳥取空港を出発し羽田空港に到着。ホテルのチェックインまで5時間ある。羽田空港のマクドナルドで腹を満たし、その後ラウンジで仕事。僕たちと同じように低気圧の影響を受けにくい午前中の間に飛行機に乗ろうと考えたのか、保安検査場がすごく混んでいる。
午後3時、天空橋の「京急EX INN 羽田イノベーションシティ」※3にチェックイン。
近くの店で軽く食事。ハラミステーキがものすごく硬かった。鞠花※4美味し。ホテルに戻り、大浴場で温まって就寝。
2月6日(火)
東京羽田(HND) → フランクフルト(FRA) → サンパウロ(GRU)
朝6時に起床※5。カーテンを開けて外を見る。ニュースでは都心部の積雪や凍結した路面状況をしきりに報道しているが、僕が滞在した湾岸周辺では積雪はないようだ。
国際線の羽田空港第3ターミナル駅はホテルのある天空橋駅の隣り。ホテルを9時にチェックアウトし、9時15分に空港着。10時に荷物預入れのカウンターが開くので、待ち時間を利用してルフトハンザのアプリでチェックインを済ませる。荷物を預け入れたあと、日本円をブラジルの通貨レアルに交換。市場では1円30レアル前後で取引きされているが、羽田空港第3ターミナルにある外貨交換所(トラベレックス)では約45円と1.5倍近い価格(帰国後に円に戻す際は、15レアル/円と高騰することにも再度驚かされた)。ちなみに、同じ第3ターミナルにあるみずほ銀行はレアルの取り扱いなし。
ここまで交換レートが悪ければ、円をドルに交換し現地でドルからレアルに変えた方が、2度の手数料を加味しても良いかも知れない。行ってから分かったことだが、ブラジルでは多くの店でクレジットカード決済できたし、キャッシュレスアプリによる支払いもかなり普及しているようだったので、現金はそれほど必要ないと感じた。
保安検査場と入国審査を通過し、ゲート近くのカフェで搭乗時間が来るのを待つ。
離陸後、長時間フライトのために用意したアイテムを取り出す。詳細は2つ目の記事にまとめるが、一番期待していたインフレータブルタイプの足おきがルフトハンザでは使用できない(禁止)とのこと。今回、日本とブラジルの往復4便は全てルフトハンザなので、長距離便では全く使えないことになる。安全のためと思われるが、残念。
搭乗した機体(B747)は座席にあるディスプレイが古いタイプのせいか反応が非常に悪く、ストレスが溜まる(以下の動画参照)。
もう一つ残念だったのは、電源をとる設備が無かったこと※6。USB-A/C、C/C、C/ライトニングの3種のケーブルを用意した僕の努力は。
機内食。
やはり14時間超のフライトは長い。Switchでマイクラとゼルダの伝説をプレイし、映画を1本観たところで目がすごく疲れたのでアイマスクと耳栓をして瞑想することに(眠りたいけど眠れないだけ)。うっすらと子どもの泣き声、ぐずる声が聞こえる。大人だって大変なフライトだもの、子どもにとっては過酷過ぎる。
現地時間の午後7時過ぎ、ドイツのフランクフルト空港(FRA)に到着。日本だと日づけが変わって7日の深夜3時過ぎ。保安検査場を再度通過し(機内でもらった未開封のミネラルウォーター没収)、2時間ほど待ってサンパウロへと向かう便に乗る。12時間弱とこれまた長時間だが、羽田↔︎フランクフルトより2時間半も短いことが嬉しい。
2月7日(水)
ブラジルサンパウロ州 → マットグロッソ州ロンドノポリス
サンパウロのグアルーリョス国際空港(GRU)に、現地時間で朝の4時半頃に到着。
画像出典:徳本修一
パスポートコントロール(出入国審査)の長い列。1時間近く並んだ。訪問予定の街の名前を間違えて伝え、「それはブラジルじゃないかも(笑)」と返されるが、正しい名前を思い出して無事に通過。Uber(Black)で予約していた車がなかなか迎えに来てくれないので少し焦ったが、無事に合流。GRUから車で2時間ほどのカンピナスのヴィラコッポス国際空港(VCP)に向かう。
VCP、面構えはややコンパクトに見えるが、中に入ってみるとかなり広い。国際空港という看板掲げているだけある。日本人がいない。アズールブラジル航空(Azul Brazilian Airlines)でマトグロッソ州ロンドノポリスのマエストロ・マリーニョ・フランコ空港(ROO)に向かう。乗員50人弱の小さなジェット機だが、これまで乗ってきたB747よりも遥かに新しい機体で非常に快適。客室乗務員も非常にフレンドリーで少し日本語を話していた(「JALの関連企業だからね」とのことだが、その後調べてもそういう記述は見当たらなかった)。
ROOは壮大な草原の中にある非常にローカルな雰囲気の空港。沖縄の離島にあるフェリー発着用の港の方がまだ施設っぽい(帰路の13日は新しく建造された新空港を利用できた)。
マトグロッソ州を中心に運輸や燃料、農業を大規模に営む会社「Group Botuvera」の経営者で友人のビセント(Vicente)が出迎えてくれ、この日滞在するホテル(Comfort Hotel & Suites)まで送ってくれた。
荷物を解いたあと夕食に出かけたが、ホテルの近くに早い時間から営業している店がなく、近くのショッピングモールでサンドイッチを買う。昨日のUberのドライバーしかり、サンドイッチショップの店員しかり、みなポルトガル語しか話さず、簡単な英語(This oneとか)も理解しない様子。とはいえ僕もポルトガル語は、Obrigado(オブリガード)=ありがとう、Olá(オラ)=こんにちは、Bom dia(ボンジーア)=おはよう、の3つしか覚えられなかったが。ちなみにObrigadoは男性が使う言葉で、女性はObrigada(オブリガーダ)と言う。
午後7時過ぎにベッドに倒れ込むようにして寝る。およそ48時間ぶりに横になって眠った。
2月8日(木)
ロンドノポリス → 北に400kmに位置する農場
時差ぼけのせいか、朝3時半に起床。5時半頃、東の空が明るくなってきた。
6時半前に、Vicenteがホテルまで出迎えに来てくれた。プライベート飛行場(Pista Marcos)へと向かい、彼の所有するセスナ機に乗って、さらに約400km北にある農場へと向かう。
非常に広大な土地に農地や密林が混在する
今回の旅はここが最終目的地となる。ここで様々な取材、撮影行う計画だ。この農場に来るまでに、鳥取から羽田へと向かう便から数えて5本の飛行機を乗り継いだ。
この農場は都市部からかなり離れたところにあるため、従業員やその家族が暮らすための住居はもちろん、学校や病院※7、教会、カフェなどがある。水は地下から汲み上げられており、電気は太陽光発電によって賄われている。電波塔も建てられ、農作業に必要なGPSの電波が供給され、インターネットも問題なく利用できる。当然のことながらブラジルの法律に従って暮らしているが、ある種の治外法権、独立したコミューンのようにも見える。自宅で生活している僕が言うのもアレだが、仕事と生活が非常に近く限定されている空間は、大平原地帯の只中にあるのにどこか息苦しさを感じる気もした。そこに暮らす彼らの表情からは、そうしたものは読み取れなかったが。将来、村をつくりそこで暮らすことを妄想している僕にとって、たくさんの示唆を得ることができた。
ここでの活動の業務上の守秘義務の関係で詳細は割愛するが、現地の写真をいくつかと、ここで食したものを少し記録しておく。
朝ごはんは数種類のパン、スクランブルエッグ、ミルクを甘く煮詰めたコンフィチュール、ブラジルらしいパンチの効いたストロングコーヒー。これが定番のスタイルで、滞在中は毎日同じ内容だった。日本でいえばごはんに味噌汁、卵焼きといったところだろう。
昼ごはんは、ライス2種(白ごはん、玄米。いずれも長粒種)、フェジョン(豆を煮込んだ料理)は不動。肉料理が2種類ほどが並び、これにファリーニャ(キャッサバ芋をすりおろして炒めたもの)、マリネされた野菜などが添えられる。肉料理はいずれも牛肉か、一方がチキンや魚になることもあった。Vicenteの農場では豚肉は供されなかった。後日サンパウロの飲食店に行って知ることになるが、ここで食したものの多くはブラジル料理の定番であった。
手前の豆料理が「フェジョン」
午後2時ぐらいになると、テーブルの上に様々なスイーツが並んだ。朝ごはんの時も含め、いつもコーヒーが大きな保温ポットに淹れてあり、好きな時にたっぷり飲むことができた。
以上はVicenteの邸宅で働くメイド2名が毎日作ってくれていた。夕食は、Vicenteや今回の農場での仕事を全面的にサポートしてくれたDaglos(ダグラス)やLouis(ルイス)たちが、キッチンに設られたオーブンで大きな牛肉の塊を薪の炎で豪快に焼き上げるBBQ(シュラスコ)が定番となっていた。噛みごたえのあるザ・赤身肉なのだが、噛むほどに味がして非常に美味しかった。
ああ、また食べたい……
数日の滞在のうちに食した牛肉は、過去1年分のそれを超えるのではないか。そう思えるほど牛肉を食べた。非常に美味かった。
2月12日(月)
農場 → ロンドノポリス
農場での全ての予定を終え、再びロンドノポリスへ。往路はセスナで1時間の旅程であったが、復路は仕事の関係で陸路で。今回の農場での仕事を全面的にサポートしてくれたブラジル人男性2名、同僚と僕の4名の約7時間のドライブ。
上空から高速で過ぎ去る光景は、実際にそこを走ってみると印象が全く違っていた。雄大で剥き出しの自然の中。その中をすさまじいスピードで走るDaglos。聞けば好きな映画は「ワイルドスピード」シリーズだそう笑。
途中、プリマヴェーラ・ド・レステという小さな街の、量り売りのビュッフェ式(ポルキロ)の食堂でランチ。
無事にロンドノポリスに到着し、残していた若干の仕事を終え、6日に滞在したホテルに再度チェックイン。Vicenteがホテルへ迎えに来てくれ、この街で人気だという日本食料理店「AZZAHO」へ。日本人にすればとても日本食とはいえないものばかりだが、店は多くの客で賑わっていた。
2月13日(火)
ロンドノポリス → サンパウロ州カンピナス
ホテルをチェックアウトし、迎えに来てくれたVicenteの車に乗って彼の自邸へ。お別れランチ会を企画してくれているとのこと。途中ドラッグストアに寄り、のど飴を購入。その後、牛肉専門店「Celeiro Carnes Express II」でBBQ用の牛肉をしこたま買い込む。ブラジル人の年間牛肉消費量は一人あたりおよそ38kgとのことで、これは日本人の約4倍※8にもなる。ゆえにこのような牛肉専門店が存在する。
買い物のあと、Vicenteの邸宅へ。海外のインテリア雑誌に掲載されているような写真がそのまま現実となったような美しい家だ。庭にはプール、地下にはVicenteのプライベートスタジオとワインセラーがあり、正に成功者の家と呼ぶにふさわしい。
Vicenteの近所に暮らす日系3世の家族も加わって、賑やかにランチがはじまる。
歴史的、社会的、文化的に異なる背景を持つ人たちとの交流は刺激的で、非常に楽しい。あっという間にフライトの時間が迫り、Vicenteに空港へと送ってもらう。
再会を約束してVicenteと別れ、ROOからVCPへと2時間の空の旅。
VCPからUberでカンピナス市街地にあるホテル(Mercure Campinas)へと移動し、チェックイン。ロンドノポリスのあるマットグロッソ州とカンピナスが属すサンパウロ州は同じブラジル国内だが1時間の時差がある(サンパウロ州が+1時間)。荷物を解く頃には午後8時近くになっていたため、ホテルの1階のレストランでビール、ピザとハンバーガーを食す。ピザは千切ったハムとゆで卵が大量に乗ったポルトガル式、ハンバーガーはスモーキーにローストされたチキンとビーフパテのハイブリッドタイプ、ビールはブラジル産のORIGINAL。
2月14日(水)
カンピナス → リベルダージ
ホテルの窓から見たカンピナスの風景
翌日は正午近くまでホテルでゆっくりと過ごして疲れを癒し、カンピナスから同じくサンパウロ州のリベルダージ(Liberdade)へ。東洋人街と呼ばれるこの街は、中国人や韓国人の影響が深まる近年までは日本人街と呼ばれていた。提灯を模した街灯「すずらん灯」が通りを照らし、ラーメンや寿司などの日本料理店、日本食材を扱うスーパーが軒を連ねる。僕たちが訪れたのは平日の午後だったが、店の前に行列をつくっている飲食店は少なくなかった。週末になると非常に多くの観光客が訪れ、ごった返すらしい。
NIKKEY PALACE HOTELのあるガウヴン・ブエノ通り
ホテル「NIKKEY PALACE HOTEL」にチェックインして荷物を置いたあと、ラーメン屋「一幸舎」で食事※9したあと、ブラジル日本移民史料館へ。ここは歴史的背景と国の事情から1900年代初頭にはじまった、日本からブラジルへの移民たちの足跡を紹介する施設。詳しい情報はWebサイト「ブラジル移民の100年」を見てほしい。
僕は21歳の時に友人を頼って上京し、アルバイトをしながら学校に通い、卒業後は仕事を転々とするなかで得た経験と、素晴らしい出会いに恵まれて現在の生活がある。思い返してみても楽な歩みではなかったが、言葉や習慣などあらゆる物事が異なる国で経験したことのない仕事をしながら生活をゼロから積み上げてていく大変さは、僕のそれとは全く比較にならない。戦争、人種差別といった深刻な問題を抱えながらも、現在のブラジルの礎をつくった彼らの功績と現在200万人にものぼる在ブラジル日系移民の子孫たちの、いまも続く努力と活躍の記録には、同じ日本人として感動なしで触れることができない。外国の人たちも一つひとつの展示に見入っていた姿も印象的だった。
その後、JICAの海外協力隊としてブラジルで活動する元同僚の友人と落ち合い、「Restaurante Embaixada Mineira Bela Vista 」で一緒に夕食をとる。ブラジルの伝統的料理フェイジョアーダが美味。
手前の料理が「フェイジョアーダ」。奴隷の食事が起源とされている
2月15日(木)
リベルダージ → GRU → FRA
ブラジル滞在最終日。朝食のあと、10時からサンパウロ美術館へ。ここは現代から古典まで多様な作品がごちゃっと、ユニークな方法で展示されている。
時間帯で入場者数を制限しているようで、かなりゆったりと作品を楽しむことができる。
12時前にホテルに戻る。部屋のドアが開かないというトラブルがあったが比較的短時間で解消し、チェックアウトを済ませる。ホテルに荷物を預かってもらい、再び現在ブラジルに在住している友人とホテル隣りの飲食店「ナンデモ屋」で昼食をとる。
2時半頃、Uber(Black)でGRUに向けて出発し、3時半頃に到着。もろもろ手続きを済ませ、現地時間の午後6時半頃にフライトで帰国の途につく。復路は往路に比べてややフライト時間が短いようで助かる。
2月17日(土)
FRA → HND → 鳥取
15日の夕方にフランクフルト行きの便に乗り、羽田行きに乗り換え、日本時間で17日の午前11時前に到着。帰りの便は機体変更があったのか、想定していた席とは異なっていた。具体的には最後尾の2席しかない列を並びで予約していたのだが(往路はそのとおりだった)、列数の多い機体になったためか3列席になっていて、僕は窓側の席のつもりが窓側と通路側に挟まれた中央になっていた。旅の途中から咳が出はじめていて、帰りのタイミングで酷くなっていたこともあり、隣に知らない人が座っているという状況には気を遣った。FRAで乗ったHND行きの便では、隣に座った女性がトローチをくれた。ありがたいと同時に咳で迷惑をかけてしまって申し訳ない気持ちになる。
仕方のないことなのだが、席が埋まっていて隣と密着するやや緊張状態で座る必要のある客もいれば、空席が連続しており肘掛けを上げて横になっている人もいる状況にモヤモヤするのは僕だけではなかろう。
時差の関係で、2月16日(金)は全時間移動に充てられたことになる。同日4時半頃の鳥取行きの飛行機に乗り、空港に迎えに来てくれていたトム(妻)と娘に2週間ぶりに再会(嬉)。
・・・
という感じで、2週間弱の旅も終わってしまえばあっという間でした。時差に慣れてきた頃には帰国、という感じでしょうか笑。
次回は準備したアイテムについて、また旅の感想などについて共有します。
- ブラジルは大きな国なので地域によって時差があります。滞在した2つの州、サンパウロ州は12時間、マットグロッソ州は13時間の時差があります
- グローバルマーケティングラボ「犯罪大国・ブラジルで自らの安全を確保する方法」
- 同じ天空橋駅の周辺に「京急EX INN」という酷似した名前の別ホテルがあるので要注意
- COEDO 毬花-Marihana-
- 旅先では、行動開始時間の3時間前に起きるようにしています
- 帰路に搭乗した同じB747でも電源設備のある機体もありましたが
- 救急車もあったので、おそらく陸路でアクセスできる距離により設備の整った病院もあるのだろう
- 馬鹿正直な牛肉屋 大喜屋「牛肉をよく食べる国はどこ?世界の牛肉消費量ランキング」
- ラーメン1杯で2000円弱と、日本のそれと比べて高い。他の店で食事した時にも感じたが、ブラジルはまあまあ物価高い気がする。前出の外貨交換のレートの影響で、現金払いの時はそれをより強く感じることとなった